流人の海

著 / クリイプ


 海面の一メートルほど下で、僕はゆらゆらと揺れ動く。
 ほとんどが海底に向けて両手をだらんと投げ出すような姿勢でいるため、たまに波の影響で海面を向くと差し込む光がひどく眩しい。
 もうこの体は僕の自由には動かない。ただ波と潮に流されて、果てのない海を浮き沈みしながらさまようだけだ。
 僕は自分の体を眺めてみる。服はもうぼろぼろで、ネクタイはちぎれて流れていってしまった。開いたままの目はすっかり塩水に慣れてしまったようだ。
 ずっと海につかっていると、全ての感覚が鈍くなるのかもしれない。
 日曜日の朝――僕は曜日だけは忘れないようにしていた――僕はいつものように無感動に海底がある方を見つめていた。
 夜が明ける頃に降りだした激しい雨は水面を強く打つ。その音に掻き消されて、はじめはその音が何を意味するのか分からなかった。
「あな…どうし……こ…ん……ですか?」
「なんだい?」
 僕が口を動かさずに聞くと、その名前も分からない小魚は僕の耳元でもう一度言った。
「あなたはどうして、こんなところにいるんですか?」
「逃げてきたんだ」僕はそう答えた。
 そう、僕は逃げてきたんだ。誰かの不快さに苦しめられることもなく、悲しみから目を背ける必要のない世界へ。
「私たちも大きな魚に食べられないように、いつも逃げ回ってますよ」
 少し違う気もしたが、小魚が愉快そうに言うから否定はしなかった。
「仲間とはぐれてしまうので行きます。元気で」
 小魚はそう言うと、僕の手の甲を口の先で何度かつっついて泳いでいった。
「さようなら」
 誰もいなくなった薄暗い水の中、僕の声はすぐに雨音に消されてしまった。
 雨と風はさらに強くなり、僕の体を右へ左へと押し流した。ひょっとすると嵐が近付いているのかもしれない。
 僕は自分の体がちぎれてばらばらになってしまわないか、とても不安になった。
 その激しい流れに身を任せながら、僕は自分の家や会社の風景を思い出していた。
 どうしてかは分からないけど、そうすることで僕は自分の精神を体にぴたりとくっつけておけるような気がしていた。それがたとえ自分の好きな場所でなかったとしても。
 遠くからイルカの群れがやってくるのに気付いて、僕はようやくそれらの景色を頭から追い払った。
 先頭のイルカが僕のすぐわきを通り過ぎていく。流される僕の体を、二頭目三頭目のイルカたちはきれいに避けて泳いだ。
「早く逃げた方がいいぜ」
 さらに続く群れの中の一頭がそう言った。
「これからさらに激しくなる」
 また違う声がそれに続き、最後にはおそらく年長のイルカがこう言った。
「こんなのは何年ぶりかね」
 全部で三十前後いたイルカは凄まじい速さで僕のそばを泳ぎ、できた泡が消える頃にはとっくに姿は見えなかった。
 気が付くとさっきまであった僕の左手は無くなっていた。
 左手がなくても特に困るというわけではないが、自分の体の一部を失うというのは気持ちのいいものではない。
 風はさらに激しく吹いた。辺りにはいくつもの渦ができ、それぞれが海の一番暗い場所へと続いているかのようだった。
 僕の体がそれに呑み込まれてしまうのも、時間の問題だろう。自分がどの方向を向いているのかも分からないまま、冷たい波に何度も激しく浮き沈みしながら、僕はそう思った。
 激しい音を轟かす渦はすぐそこに来ている。
 ふと見ると、左手首からは血の代わりに肉のかけらがぽろぽろと溢れていた。
 やがて僕はその渦のひとつに呑み込まれてい


    渦が

                                      回す

     ぐる

 ぐる

   僕の

                                               死体

    ぽろ

                     ぽろ





 静かになった。




 ……声が聞こえる。
 どこか遠くの方で、その声は確かに僕に向けて発せられていた。
「起きなさい」声はもう一度、ゆっくりと言った。
 やがて失ってもいない意識を取り戻すと辺りは真っ暗で、その中でやけにはっきりと、シーラカンスの姿が浮かんでいた。
 ここはどこなのか、僕は見渡すけどどこにも光なんて見当たらない。ただここが、底だということだけは分かった。
 小さい頃に図鑑で眺めたシーラカンスに、僕は話しかけた。きっとそのシーラカンスは、図鑑で見たものと同じものなんだろう。
「ここはどこなんですか?」
 泳いでいたシーラカンスはゆっくりと動きを止めて答えた。
「ここは海だよ」
 僕はその答えに妙に納得して、それ以上ここのことを聞かなかった。知ってどうにかなるわけでもないんだ。
「そういえば君の体、二つに分かれていたから小さい方は頂いたよ。悪かったかな?」
 悪びれる様子のないシーラカンスの言葉に僕は、はぁという気のない返事をするのがやっとだった。
 厳かとでもいうのだろうか、目の前のシーラカンスはどこか近寄りがたい雰囲気を備え、僕は再び話しかけるのをためらった。
「本当は人がこのような場所に来るべきではないんだが」
 そう言うとシーラカンスはくるりとその辺りを小さく周回した。
 深い絶望の深海に沈んだ僕は、ようやく言葉を探し出した。
「僕は帰りたいんです。自分の帰るべき場所に」
 シーラカンスは暗い海をもう一周する。
「君の帰るべき場所はどこなんだい? それは家でも会社でも、ましてやこの海でもないんだろうね」
「それは……」
 僕の帰る場所、いくら考えてもその景色が僕の頭に浮かぶことはなかった。
「思うに君に帰る場所なんてないんだよ。君が心を開いて、何かを受け入れない限りはね」
 シーラカンスの言葉は僕をひどく混乱させた。じゃあ僕は、どこに行けばいいんだろうか。
「もうすぐだよ。ほら、地面が裂け始めたのが分かるかい?」
 シーラカンスの言う通り、地面はいくつかの亀裂を作りながら裂け始め、裂け目からはオレンジの液体が滲み出した。
「海底火山、名前くらいは聞いたことがあるかな?」
 すぐに地響きが聞こえ、地面が激しく揺れだした。
 オレンジの液体を噴き出しながら破裂した地面は、僕を知らないどこかへ吹き飛ばそうとしていた。
 誰もがいつもと変わらぬ生活をする日曜日、僕は夢を見た。どこか暖かい場所で、死んだ妻と静かに食事をする夢を。
 夢の中で僕は楽しそうに笑い、やがて飲んでいた水の中に溶けてしまった。
 僕にはきっと分かっていたんだ。どこに逃げようと、この胸がしぼんでしまうような空虚さは消えないのだと。
 そしてシーラカンスは知っていたんだ。僕が帰りたい場所は、この世界のどこを探してももう見付からないってことを。
 これから僕はどうすればいいのだろうか。
 遥か上空に霞んだ小さな光を見上げると、少しだけ気が滅入った。

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